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観測者ハ足跡ヲ残シタ。
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【お断り】
アニメ「PSYCHO-PASS(サイコパス)」から感じた事をメモ代わりに文書化したものです。
メモ代わりと述べた通り、感じた事を主につらつら書いてますので、脈絡があったりなかったり。加筆修正を随時加えるかもしれません。
主観による物も割と多いので、一つの感じ方として。
文面等は自由に書いてますので、記事っぽくはありません。
ナンバリングしてますが、単なる順番で今後増えるかどうかは未定。
ー害のあるもの。人間にとって、悪影響を与えるとされるものを、取り除いて排除して。果たして本当に人は過ちを犯さず清廉潔白な存在たりえるのだろうか。悪いものを無くす事で、悪いものは生まれてこないのだろうかー
新編集版から。
槙島はサイコパスにおける問題提起者として言った。
「犯罪者の存在すら許さない社会は、やっぱり不健全だよ。完璧に殺菌された環境で育った人間が、ある意味どんな病人よりも弱い存在であるのと同じように」
悪いものは人間の精神や判断に悪影響を齎す。ましてやそれが未成熟な者であればあるほど、その人間に与える影響は大きい。
そういう理念の元、度々「これは悪影響だから規制する」だの、「不健全だから」という理由で見せない与えない。そういう風潮も今はそう珍しくなくなった。
いい例として、サイコパスの媒体であるアニメーションも、インターネットも、きっと世間的な一部の”大人達”からすると、ものによってはそういう部類に入ったりして、そのたびに賛否の分かれる議論や記事なんかを目にしたりする。
どっちがどうのとか、そういう事はケースバイケースで、一概に言えない点が多いので割愛するが。サイコパスで槙島が言った言葉、そしてこの世界観の大元である高処理演算システム「シビュラ」。これらの事を考えると、色んな事を疑って掛かりたくなる。
人間の精神にとって悪いとされるものを取り除いて行って、果たして本当に誰もが幸福と感じる社会は築けるものなのか。犯罪の無い、健全な社会を構築する事ができるのか。
サイコパスの世界を支えるシビュラシステム。人間の生体力場を解析して数値化したものが犯罪係数だという。それが高ければ高い程、潜在犯として処理される。潜在的に悪意を持っていて、その悪意によって将来、犯罪を引き起こす可能性の高い人間と断定されるというわけだ。犯罪が起こってからでは遅いから、危険な芽は早いうちに摘み取る。そんな所だろうか。
そもそも、機械なんかで人間の心の奥底を読み取ることなんて可能なんだろうか。ましてや、その心を数値化することなんて…。
同じ人間でさえ、他人の思考や心理なんて、何百年文明を築いてもその深層まではなかなか辿りつけないというのに。
他人の思考回路すら正確に感じ取ることが難しい中で、機械が出した物を正しいと信じて生きる世界は、同時に途轍もない恐ろしさも感じさせてくれる。
シビュラが潜在犯を裁いてくれる、だから街中ですれ違う人に悪い人はいない。
シビュラが自分に合った生き方を導いてくれる、だからそれを信じれば幸せな人生を送れる。
シビュラがあるから、この社会は平穏を保てている。
そういう思考回路が当たり前になってしまった世の中では、それを疑う事さえ罪になる。
シビュラシステムが最も優れた社会構造を構築したのだと、信じているからそれ以外の方法なんて考える必要がない。
自分で考える事をしなくなって。自分が不安に思わなくても、街中に張り巡らされているサイマティックスキャンが犯罪係数をスキャニングしてくれているから、何かを疑う事もない。
わざわざ危ない橋を渡って失敗するよりも、必ず良い未来が待っていると歩むべき道を提示してくれた方が生きる事自体はずっと楽で。考えたり、決断したり、失敗して後悔したり。そういう事をしなくなった社会では、教訓や過ちに対するものの生かし方すらなくなってしまうような気がする。
ひとつ、繋がれて。それがどんどん連鎖すれば、ただの惰性でしかなくなって。槙島の言う「シビュラに飼いならされた家畜」社会の出来上がり。
社会を統率する側からすれば、それは極めて都合がいいように感じる。
これは正しい!と言えば、大勢の人間が「それは正しい事だ」と認識し、これは悪だ!と言えば、大勢の人間が「悪いものなんだ」と認識する。大衆心理というか…。これほど上辺の安定を拵えるに都合の良い土台も無さそう。
槙島はその社会構造に疑問を持っていた。
シビュラの言いなりになって、拒否した者は不適合として処理される。それが本当に本来人間のあるべき姿なのか。決められたレールの上を「幸せになれるから」という理由で、受け入れて本当に幸せなのか。過去に、多くの人間が問い、迷い、間違いながらも答えを見つけようと考える。そうして生み出された書物の数々を読んだ彼だから、その考えに至ったのかもしれない。
今の私達なら、自分の人生を自分で考えて選ぶなんて、当たり前過ぎてその構造そのものを考える事が無い。自分で考えて選ぶから、失敗もするし、後悔だってするけど、自分で考えて選ぶから自分の判断に責任が生まれる事を経験として知る。自分の行動に責任が生まれる事を知るから、人は過ちを繰り返すまいとする。そういう当たり前すぎて気が付かない連鎖の無い世の中は、結局一番てっぺんに座してるシステムにとって、都合のいいものしか与えないし、見せない。良い悪いではなくて、「システムが構築する社会にとって都合のいいもの」という事のようにも思える。
狡噛は監視官から執行官に降格した時、その事に薄々感づいていた。
法では人は護れない。誰もが信じて止まない、局長から言わせれば、完璧でなければならないというシビュラシステムの一番の穴。唯一、犯罪者を裁く事のできる携帯型心理診断・鎮圧執行システム・ドミネーターで裁く事の出来ない免罪体質者の存在。犯罪を犯す思考回路とその行為を幇助しているとはっきりしていても、犯罪係数が規定値に行かなければ結局シビュラに、自分達に、裁く事は出来ないのだという現実。
シビュラに支配された世の中の、与えられていた仮初めの幸福の裏にある不条理に気付いたという事だろうか。
槙島と同じ思考に、狡噛もまた、行きついていたという事になる。白と黒、昼と夜のように正反対でありながら、どこか根っこの部分で似た者同士だった二人の、共通点か。
常守は自分の将来を選択する際、シビュラが選出した職種の中に公安の監視官があった事に疑問を抱いた。当然、その時はシビュラシステムの違和感なるものでは無くて、彼女はシビュラが絶対に正しいのだと教えられて生きてきたから、単純に「何故なのか」という疑問。
周りの友人達もシビュラシステムによって構築された社会に順応しきっていたので、彼女の疑問はただの贅沢な悩みだと受け止め、常守もまた「そうなのかな…」と納得せざるえなかった。
”疑問を抱く”という事でサイコパスが濁るとされている世の中なのだから、疑問なんて抱く事そのものが、イコール危険という構図。深く考える事も、それはしてはいけない事なのだという思考に変換される。ある意味、強迫観念に近いものか。
しかし監視官として狡噛に出会い、事件に関わり、槙島に関わる事で、そのシステムの穴に彼女も気づいていく一人になる。
そう考えていくと、潜在犯そのものの定義も何なのかと思ってしまう。
単純に感情的、或いは悪意をもって意図的に犯罪を犯すものも実際その「潜在犯」というカテゴリーにいるが、全ての「潜在犯」が本当に犯罪を犯すのかどうか…。
「潜在犯」というレッテルに畏怖や過剰なストレスを感じて、本来ならならない筈の潜在犯を生み出してしまっている可能性も考えてしまう。
人間にとって悪いものに触れて、それに触れたから犯罪を犯す可能性を指摘されて、潜在犯として処理される。それは見方を変えると、社会にとって不利益な事。シビュラにとって不都合な事、とも重なるような気がする。
潜在犯=犯罪者予備軍というよりは、潜在犯=社会不適合者=シビュラシステムにとって不都合な人間と思えるのは考え過ぎなのだろうか。
一話目でパラライザーモード(対象制圧)のドミネーターが効かず、脅威判定が更新され、対象排除(射殺処刑)であるエリミネーターモードが発動した際、柾陸が言った「もう、この世にはいらない人間なんだとさ。更生の余地なし、そう判定されちまったんだ」という台詞に、社会不適合者という文字が重なった。
仮に犯罪に至るような後ろ暗い事情が犯人にあったのだとしても、それが必ずしも犯罪を引き起こす直堰的な原因になったのかというと、それは人間や機械、本人にすらも解らないのではないか、と。
悪いものを悪いものとして排除する事が、正しいという結論に至る事もあるのは事実。それは一つの考え方、方法として成立するのかもしれない。
でもそれを徹底したから、社会から全て取り除いて、人々の目に触れないようにしたから、じゃあ悪い人間がこの世からいなくなるのかというと、強ちそうとも言い切れなさそう。そういう社会が構築されれば、今度はそういう社会からしか生まれない悪意が出てきそうな気もする。
だって綺麗なものだけ見て生きていくなんて、どだい無理な話だろうよ。
人の心の中ですら複雑で、誰の心にも自己顕示欲は存在してて、理性や自我でそれが表に出るか出ないか程度の違いしかないのに、見るもの触れるものを無菌状態にしたからって、理想的な健全さが得られる補償が何処にあるのやら…。
どんなに健全さを追求したとしても、管理社会にしたとしても、人間の本質はそんな簡単に変わるものではないように思う。
刃物や炎は危なくて、下手をすれば人の命すら奪ってしまいかねない代物だけど、使い方や在り方を間違えなければこれほど人にとって、便利で有益を与えてくれるものも無い。それを危ないから!と取り上げる風潮は、まさしくシビュラシステムの第一歩な気がするのは考え過ぎなのか…。
考え方や見方一つで、毒にも薬にもなる。大事なのは、その危ないものをどう扱うか。適切にどう処理すべきなのか。そういう環境や意識で、良くも悪くも転がりそうな気がする。
未成熟な人間に対して、社会や大人がそれをどう扱うべきかを助言して、教訓や概念に変えていけなければ、結局のところ排除した所で根本的には何も変わらない、寧ろ別の悪い面を生み出してしまうのではないか、と思う。
…とは言いつつも、槙島の行動を擁護するつもりはない。
どんな理由があっても、彼が彼の意志で他人の命を奪って良い理由にはならないと思うので。
それでも彼の考え方は完全悪というには少し違うような。何か、もっと読みとらないといけない問題を提示してくれているような気がする。なかなか面白い、この物語にとってある意味良いヒールだと思う。
それにしても、近未来SF物はシュタゲにしてもそうだけど、沢山の事を考えたくなる。
折角見るんだもの、その群像劇が何を自分に見せてくれているのか、何を問いかけているのかを読みとらなければ勿体ないね。